紙おむつの使い方

病院暮らしが始まって、最初の頃は我が子は赤ちゃん用のポットと呼ばれるベッドに眠っていたため、私自身は子供用のベッドに寝ていました。

日中はそこがお世話用のベットに早変わりです。

しかし、もちろん小児科に居るため、ベットは子供用。155cmの私の身長がぴったり収まるサイズのため、夜に体を伸ばして眠ることができませんでした。

安眠できない中、手術に向けて準備が始まりました。

 

ところで、新生児のお風呂といえば沐浴ですが、体にいろんな謎チューブがついてからは普通に沐浴させることはできません。けれど、新陳代謝が激しい赤ちゃんは清潔に保つために毎日お風呂に入らせなければいけない。

そんな時に活躍するのが、紙おむつだったのです。

体は清拭、お股はシャワーみたいになっているペットボトルでお湯をかけて綺麗にしたんですが、頭を洗う時には紙おむつを頭の下に敷いて上から水をじゃんじゃんかけ始めたのです。

さすが日本の紙おむつ。じゃんじゃん水を吸い取り石鹸をつけた髪を綺麗に洗い上げるまでの吸水率。まさか、メーカーさんもそんな使われ方をするなんて夢にも思わないでしょう。

もし、我が子が熱でお風呂に入れない時も、この方法なら…。

まあ、そんな日は来てほしくないですが。

けれど、産婦人科を出てすぐに小児科に移ったため、新生児の子育てっていうものがいったいどんなものなのか、結局わからないままでした。

我が子の全裸を見たのも、ずいぶん後になってからだったし。

良かったことは、困ったことがあればすぐに看護婦さんに質問できるということ。

おかげで、ホームドクターがそばにいる安心感がありました。

 

母親以上看護師未満

我が子が病気ということがわかり、随分勉強しました。

きっとどのお母さんお父さんもそうでしょう。

病気について、手術について、費用について…、ありとあらゆる情報をネットで検索し、学会資料、論文、怪しげな民間療法までとにかく不安なぶんだけ調べ尽くしたました。

病名を入れて、検索ワードに引っかかるものはブログでもなんでも。

でも、やっぱりわからないのです。

わかったような気もするけれど、お医者さんや看護師さんの処置に対してなにか出来るわけではないのです。

それでも、副作用やリスクについての不安をついつい口にしてしまうのです。

 

私も、何度かお医者さんへの不信感をぶつけてしまったことがありました。

旦那様とも何度もケンカしました。

自分は必死で調べているのに、なんでそういう資料に目を通してくれないのか。

ただ、ある程度調べ尽くして、

もう、手術するしかないんだな。と諦めがついた頃、お医者さんを丸ごと信じる気持ちになりました。

信じなきゃいけないんだと、腹をくくりました。

何を言っても何をしても、娘を助けてくれるのはこの人達なんだと。

すっと、穏やかな気持ちになりました。

夜中の授乳の間に携帯で調べて、暗い未来に泣くこともなくなりました。

何度も考えたもしも、を想像しなくなりました。

ただ、その分看護師さんの処置を学ぶことにしました。

今何をしていて、どんな結果に繋がるのか、どんな意味があってどんな効果が出るのか。

何度もそうやって見ることで、何度か看護師さんのミスを防ぐことができました。

ちょっとした違いだけれども、沐浴の時の手術痕の処置の仕方、tチューブに胆汁を戻す時の位置の違い、点滴のコードやアラーム。

もちろん、それって違うんじゃないですかなんて言わずに、そういう風にするんですか?と聞く感じで。

そうやって、何度かヒヤリとする場面を乗り越えることができました。

母親として出来ることを、最大限。

妊娠線のその後

結局、生活の木で購入したオイル(3本)で妊婦生活を乗り切りました。

肝心の妊娠線は、見えるところはちゃんとケアできていたように感じます。

背中やお尻なども大丈夫だったようです。

ところが、思わぬ刺客

そう、

お腹のした。いわゆる出産後のラクダのこぶのようにタルンタルンしているお腹の下の方にひび割れが!!!!

 

なんたる失策。

 

確かに、お腹のケアは、ずっと円を描くように優しくマッサージを続けていました。

もちろん鏡でチェックすること欠かさず、毎日、毎晩きっちり塗っていましたとも。

しかも、お風呂に入っている主人からの指摘。(浴槽に入って、下から見上げるかんじで)

まさか、とお腹の肉をたくし上げてみれば、確かに赤い線が何本も走っているではないですか。危惧していた(エイリアン)になるとは…。

悔しさがこみ上げてくるものの、できてしまったものはしょうがない。

そもそも、このお腹のたるみがなんとかならないと話にならない。

ということで、発見以来7カ月となりました。

結局どんな感じになったかというと、赤かった線は白い脂肪割れの線になり

たいして目立たなくなりました。

ビキニでも着るなならまだしも、パレオをまけばなんてない感じ。

うん、こんな線よりまずはお腹の脂肪!。

しかし、産後ダイエットの六カ月のタイムリミットはとうに過ぎてしまったのでした。

家族への告知

ということで、怒涛の出産、娘の入院となり私の身柄は娘とセットで個室に詰め込まれました。

予想していたこととはいえ、事前に家族への娘の病気について話ができていて良かったとおもいました。とてもじゃないけれど、こんな状態・状況で家族のケアまでやってられない。

けれど、事前にと言っても出産一ヶ月前に私の父親と主人の両親に話をし、母親には一週間前に具体的な病名を告げました。

何しろ、遠方に住んでいるとともに高齢かつ、うつ病とはっきり言って母親本人が病院が必要な状況。

母親は、生まれたらすぐにこちらに来て、私と孫のお世話をする気満々でした。

もちろんそんなことは夢のまた夢。来てもらっても、面会の制限がかかっている上、家には主人しかいない。

そんな状況を理解してもらうために、いろいろ根回しをしました。

たくさんのもしも、の話をし、すぐには来れない可能性が高いよ、と事前に伝えていました。

しかし、病気の話をした時も、電話越しだったためちゃんと伝わったかわからず、その後何度も何度も説明することになりました。

 

おそらく、家族の「病気への理解」がとても治療に向かうために必要だし、とても難しいと感じました。

どんな病気なのか

一万人に一人の確率がまさか自分の孫に

手術なんて生まれたばかりで危険じゃないか

なんで会うことができないんだ

母親からぶつけられるたくさんの「なぜ」は、自分たちですら娘の病気に対して納得していない中ものすごいストレスになりました。

電話するのが嫌になりましたが、それでも母も母で体調が悪く苦しんでいる。孫が楽しみで、それを支えにして頑張ってきていた。解ってる、だけど、聞きたくない。

母の口から聞こえてくる言葉は、どれも不吉なものでした。

わからない不安がそのまま言葉になっていました。

私もついつい、辛い口調で当たってしまいます。

しょうがないんだから、を何度も繰り返しました。

同じ目線で、娘の未来の話ができるようになるまで、本当に時間がかかりました。

 

たまたま、病院のラウンジで居合わせた女性(お母さん)が電話で話している内容が聞こえました

女性「今回の手術で輸血したの」

相手「…」

女性「しょうがないじゃない、するしかなかったんだから」

相手「…」

女性「私だって、そう思うけど、必要だったんだよ?」

悲痛な声。ものすごくその時の女性の気持ちが自分の経験と心が重なり苦しくなりました。

病気を抱えた子供をもつ親は、果たして無力だということを強く知らされます。

子供の体に何度もレントゲンを浴びさせ、注射をし、嫌がるたびに内出血が増えていく。

できることといえば、患部を優しく撫でるだけ。抱きしめ、瞳を覗き込み、自分は涙を流さないように我が子が安心するよう微笑みを浮かべることしかできない。

だからこそ、肉親からの「なぜ」は本当に心に刺さります。

分かって欲しい、「何かできることはない?」と寄り添って欲しい。質問はやめて。

だって、私が病気に対して二番目に質問したいんだから。そう一番質問してもいいのは我が子自身。

もし、病気になってしまったお子さんの母親がそばにいたら、

「どんなことがあなたの助けになりますか?」

と聞いてください。きっとその言葉が最初の「理解」につながっていくとおもいます。

今、私は母と良好な関係でいられてとても幸せです。

母を含めた家族全員で協力できていることをかんじています。

さあ、今日も頑張れる。

 

娘の入院生活と産後の肥立ち

よく出産した後は20日ぐらいずーと寝ていて、お風呂も入れない中、体の回復を待って、床上げを待つ、という話を姑さんからずーと聞いていました。

出産後は本当に体がボロボロになるし、赤ちゃんのお世話に慣れないなか出ない授乳との戦いもあってたいへんよ、と。

確かに、出産するまでは旦那さんともそういう話をして、何もしないでいいフラグを山ほど立てていました。

どんだけ辛いかもわからず、そして想像することもなく。

しかし、というかやっぱりというか

娘の入院が確定したことで、私はそのまま付き添いで入院することになったわけです。

しかし、この入院。当たり前のことですが娘の入院であって、私の入院ではないわけです。

すると真っ先に困ったのは食事の問題。

ご飯がない。

娘は、病院からのミルクと私の母乳でいいわけですが、肝心の私の栄養源がなかったのです。

病院の設備として箱型の冷蔵庫を借りるも、一日100円カードで支払うシステム。

しかも小さい。頭のなかで内村さんのイッテQでみた中国でのホテルのくだりを今なら笑いながら話すこともできますが、その時は死活問題。

ご飯がない。おかずもない。水もない。

母乳なんて出るわけない。

病院内にコンビニはあるけれど、生まれたばかりの娘から目が離せない。

そのほかにも、赤ちゃんミルクのもらい方や、シャワーの使用法(15分)、オムツとミルクの記入方法から、うんちオムツの計測と保管、処理の方法、ベットの使い方と、シーツ・産着の交換についてなど、一気に覚えることがあり、産後の貧血気味の頭では全く処理することができませんでした。

でも、やるしかない。

使命感とか、責任感とか、そんな強い気持ちは全くなく

ただ、目の前にちっちゃなちっちゃな赤ちゃん(賢者face)がいる。

かわいいとか、可愛くないとか、そんなことも考えることなく

ただ、ぼんやりと体に重くのしかかる疲労感(これも後になって、あの時は辛かったと思い出す程度)に耐えながら入院生活を始めたのでした。

 

もし、同じ境遇のお母さんがこのブログを読んでいたら、言いたいのは

すごいよ、本当に。誰も褒めてくれないし、誰も気づいてくれないけど、本当に我が子の病気のことを最優先で何の見返りもなく1日をこなしてるあなたは、本当にすごく頑張っています。

先が見えなくて、夜中の授乳とかで泣きそうになる時もあるけれど、でもその1日が必ず赤ちゃんの明るい未来につながっていますよ。

そう、一緒に頑張りましょう。

 

娘の入院…、怒涛の日々。

娘の入院二日目、そして私の退院日。

産婦人科を出て、そのまま小児外科へ。そして個室に入っていた娘、と憔悴しきった旦那様。

一晩で何があったのか。どうやら、娘と初めて過ごす夜、何をしていいかわからずほとんど寝ずに起きていたらしい。

お疲れ様、と声をかけて娘との再会。

そのあと、怒涛の入院のための資料や署名を行いました。読めば読むほど頭が混乱してくる資料。とりあえず、書くだけ書いて、クリアファイルにしまうことに。

担当医に病状説明をしてもらい、病名を教えてもらうと胆道拡張症の疑いあり、とのこと。今まで3cmの黒いまる、だったものに名前がつきました。

今まで、エコーで形を見て、嚢胞というキーワードで散々検索していたため、その病名には馴染みがありました。

そして、もう一つの病名、胆道閉鎖症の可能性もあるよ、と。

同じような名前で、でも段違いに重さが変わってくる病名。

担当医の先生は、拡張症の方でほぼ話を進めていた。

もしも、の可能性で閉鎖症の話をしていた。

その違いは、私にはわからなかった。

ただ、担当医の口から語られない、生存率のパーセントばかり脳裏にちらついた。

 

様子をこれから見て行って、それによってこれからが決まります。

と言われ先の見えない入院生活が始まりました。

 

様々な同意書に署名をするたびに、底知れない不安がこみ上げてくるのでした。

産婦人科からの小児外科

ここからは、これから始まる赤ちゃんの入院治療について

まだ何の病気か確定できない状況が少しずつ変化していく毎日

不安と、産後の体調不良。初めての子育てと手術までの道のりです。

 

出産して四日目、赤ちゃんにしてみても生まれて四日目で小児外科に異動になりました。

ポットと呼ばれている赤ちゃん用のベットのまま、同じ棟にある小児外科へと転院です。

今までは、私が入院しているため、赤ちゃんは付帯物として扱われていましたが、これからは赤ちゃんがメインになるため、私が付帯物になります。

この病院では、24時間保護者付き添いが義務づけられているため、赤ちゃんの入院、即誰かがそばにいないといけない、ということになるのです。

しかし、私はまだあと1日入院しなければいけなかったため、代わりに主人がその日の晩赤ちゃんと過ごすことに。

しかし、困ったことが。今まで産婦人科の方では望めばいくらでもオムツが貰えたのに、小児外科に異動になると決まった瞬間に全てのオムツが回収されてしまったのです。

まあ、当然と言えば当然。あまり疑問も抱かず小児外科に異動し、さてオムツはどうするかというところで、

すいません、オムツどうしたらいいですか?

と質問

看護師さんも予想していなかったらしく、さまざまなオムツをかき集めてきてくれなんとか対応することに。しかしそれでも、結局足らず、どうしようもなくなり産婦人科に泣きつくことに。

夜中にまさかオムツをもらいに来る元患者がいるなんて考えもしなかったでしょうが、そこは優しく対応してもらいました。

そこまでであとは旦那様とバトンタッチ。私自身は産婦人科にある自分のベットに戻ることに。

そのあとは赤ちゃんと過ごせない不安よりも、これから始まる赤ちゃんのための入院生活のために考えないようにしながらも、不安な夜を過ごしました。